驚愕! 戦後ドイツで難病と戦った医師 肥沼信次 経歴は?

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2019年3月4日、テレビ東京で21:00~21:54に「世界ナゼそこに? 日本人」が放映されます。

番組紹介には個人名は出てきていませんが、「戦後ドイツ 難病 名誉市民 日本人医師」で検索すると、特集されるのは肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)という名前の医師だということがわかります。

1.肥沼信次プロフィール

肥沼信次医師のプロフィールは以下のとおりです。

  • 生年月日:1908年10月9日
  • 没年月日:1946年3月8日(37歳)
  • 出身大学:日本医科大学、東京帝国大学

父、肥沼梅三郎は東京都八王子市で外科医を営んでいました。肥沼信次は1937年、国費留学生としてドイツに渡ります。

2. 肥沼信次医師のドイツでの活躍

肥沼信次さんがドイツに渡り、第二次世界大戦が始まりました。

ドイツで医学を学び、ベルリン大学医学部で教授になったのです。

1945年、戦況の悪化により、日本人は、ドイツから帰国するようにと指示が出されました。

それにもかかわらず、肥沼信次さんはドイツにとどまりました。

そして大学での研究を終えたあと、ヴリーツェンという街に赴きます。

そこでは、難病発疹チフスが猛威をふるっていました。

3. 難病発疹チフスとは

発疹チフスとは、シラミによって媒介される感染症です。

第一次世界大戦中に、ヨーロッパで数百万の人が亡くなっています。

致死率は、年齢によって異なり、20歳まででは5%であるのに対して、60歳以上では100%近くなるとのことです。

肥沼信次さんは、薬も十分でない中、発疹チフスにかかった患者の手当てに渾身の力を注ぎます。

しかし、自らも発疹チフスを患い、「桜をもう一度みたかった」という言葉を残して、37歳という若さで亡くなったのでした。

4. 肥沼信次さんの業績が評価されるまで

肥沼信次さんが訪れたヴリーツェンという街は、昔の東ドイツにあります。

ドイツ統一以前は、日本人の間では肥沼信次さんのことは全く知られていませんでした。

1989年に「ベルリンの壁崩壊」があり、ヴリーツェンの街の人たちが日本の新聞に「コエヌマ・ノブツグという人を知りませんか」と投稿しました。

親族の方が名乗り出て、ようやく日本人の間でも肥沼信次さんの偉業が知られるようになったのです。

父さん
父さん

まさに命がけで病気と向き合ったのだな

母さん
母さん

若くして亡くなるなんて、お気の毒ですね

5. ヴリーツェンでの記念式典

1994年、ベルリンの壁崩壊後5年経ったときのこと。ヴリーツェンの市庁舎前で、肥沼信次さんの偉業をたたえる記念式典が開催されました。

肥沼信次さんの弟、肥沼栄治さんから桜の苗木100本が贈られたそうです。

肥沼信次さんはヴリーツェンの名誉市民に選ばれました。

そして、2011年3月11日の東日本大震災のときには、ヴリーツェンの市民から義援金が送られたそうです。

6. まとめ

以上、戦後ドイツで発疹チフスと戦った医師、肥沼信次さんの経歴などについて調べてみました。
ヴリーツェンの市民からの感謝の気持ちがよく伝わってきます。

日本人の中でも、世界で活躍する人がいるのですね。

日本人医師の活躍を誇りに思うようにしよう

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